日本のデザインアーカイブ実態調査
DESIGN ARCHIVE
Designers & Creators
柳 宗理
インダストリアルデザイナー
レポート:柳工業デザイン研究会 2016年7月20日(水)
インタビュー:柳宗理記念デザイン研究所 2017年1月24日(火)
PROFILE
プロフィール
柳 宗理 やなぎ そうり
インダストリアルデザイナー
1915年 東京都生まれ。
1940年 東京美術学校(現東京藝術大学)卒業。
1950年 柳インダストリアルデザイン研究所設立。
1953年 財団法人柳工業デザイン研究会開設。
2011年 永眠。
Description
説明
終戦の翌年、1946年からデザイン活動を始めた。その後、消費文化が急速に拡大していったなかで、大量生産、大量消費社会の経済システムに加担しているデザイナーを痛烈に批判した。そして、「デザインとは何か」をひたむきに見つめ、売るためのデザインではなく、人の心に寄り添う生活のデザインを追求した。
2011年に亡くなるまでの65年間、幅広い分野の多彩な製品のデザインを手がけた。ケトルやカトラリー、ティーポットなどのテーブルウェア・キッチンウェア、レコードプレイヤーやミシン、自動車といった工業製品、高速道路の防音壁、関越トンネルの坑口、歩道橋、消火栓、オリンピックの聖火台、キオスク、商店用の秤、油絵具の容器、家具、照明、テキスタイル、文具、玩具、雑誌の表紙など。2枚の成形合板を組み合わせた名作バタフライスツールは、MoMA(ニューヨーク近代美術館)やルーブル美術館に永久保存されている。
一方で、「デザイナーが介在しないデザイン」を賛えた。ひとつは、ジーパンや野球ボール、ピッケルなどの製作者名が記されていない、用に即した美をもつもの、もうひとつは、父の柳宗悦が唱えた民藝運動の、日本の名もなき民衆の手仕事によって生み出された生活道具である。そこに生活の原点があり、美の源泉があると捉え、柳自身もそうした名前が前面に出ずに広く使われるアノニマスなデザインを理想として、身体の深奥から生み出されるものをつくることを目指した。
デザイン活動を行う傍ら、1977年から2006年まで東京・駒場の「日本民藝館」の館長を務め、宗悦の思想を継承し、先人たちの残した遺産を現代に伝えることに尽力した。柳の製品を販売する「柳ショップ」は、東京の四谷にある。
Masterpiece
代表作
<プロダクト>
エレファントスツール(1954)バタフライスツール(1956)
白磁土瓶(1956)スタッキング花器(1979)
黒柄カトラリー(1982)パンチングストレーナー(1999)
<公共施設>
大阪くずはニュータウン歩道橋(1972)
横浜市営地下鉄の水飲み場と水汲み場、ベンチ(1973)
東名高速道路 東京料金所防音壁(1980)
<その他>
野毛山公園の案内図(1970)
札幌冬季オリンピック聖火台(1972)
名古屋市営地下鉄のキオスク(1973)
『民藝』表紙デザイン(1977)
<書籍>
『柳宗理 デザイン』(1998・河出書房新社)
『柳宗理 エッセイ』(2011・平凡社)
Interview
インタビュー
柳宗理記念デザイン研究所
インタビュー:2017年1月24日(火)
取材場所:柳宗理記念デザイン研究所
取材先:森仁史さん、南有里子さん
インタビュアー:関康子、涌井彰子
ライティング:涌井彰子
イントロダクション
柳宗理記念デザイン研究所は、2014年に開設した金沢美術工芸大学(以下、金沢美大)の附属施設である。所在地は、泉鏡花記念館、金沢蓄音器館、金沢文芸館など、多数の文化施設が集まるエリアの一角で、かつて老舗和菓子店「森八」の本店であった建物の1階と2階を再利用している。同研究所には、常設展示と企画展を行なう2つの展示スペースのほか、金沢美大が所有する数百点の作品を収納する保管庫、研究書庫、公開講座などを行なうレクチャールームが設けられている。常設展示室は、ダイニングやキッチンなど生活を想定した空間の中に、約200点の柳の作品を配して公開しているのだが、それらの作品にはキャプションも説明文も一切付けてない。その理由は、先入観を与えることなく、直に作品に触れ、モノとの対話によって、柳のデザインを感じ取ってもらうことに主眼を置いているからだという。
柳宗理と金沢美大との関係は、1956年に柳が同大学の嘱託教授に就任したことに始まる。以降、約50年にわたって教鞭をとり続けた柳は、多くの学生に多大な影響を与えた。こうした功績を伝えるために創設されたのが、同研究所である。研究所の開設にあたっては、2012年に柳宗理のデザイン事務所である財団法人柳工業デザイン研究会から、デザイン関係資料約7000点が寄託された。これを機に、両者で学術協力をしながら柳のアーカイブの整理、研究を進めている。
今回は、柳宗理のアーカイブ調査の第二弾として、2つの研究機関が担うそれぞれの役割、学校教育におけるアーカイブの活用方法などについて話をうかがった。
研究所設立の経緯と展示内容
― 柳宗理さんのデザインアーカイブについては、こちらの柳宗理記念デザイン研究所と柳工業デザイン研究会が、二本柱で管理されているとうかがいました。まずは、その経緯をお聞かせいただけますか。
森 柳宗理さんは、約50年にわたって金沢美術工芸大学(以下、金沢美大)で教鞭をとっていました。こうした縁もあり、退職された教員の方々から記念館をつくってほしいという希望が寄せられていたのですが、なかなか実現できずにいたのです。そんななか、四谷の柳工業デザイン研究会が所有していた柳宗理のデザイン関係資料約7000点が金沢美大に寄託され、金沢市が取得したこの建物を、活用することが決まりました。
当初は、博物館にする予定だったのですが、残念ながら建物が古いため、耐震性などの問題から不特定多数の人が訪れる施設としては利用できず、金沢美大の研究所という形態で運営することになりました。ですから、大学の教室の中に置いてある作品を見てもらう、というかたちで一般公開しています。
― こちらには、どのような作品が展示されているのでしょうか。
森 1階には2つの展示資料室があります。展示資料室1は柳宗理の作品や空間を通して、彼のデザインに対する考え方を知ってもらうための常設展示室です。現在展示しているのは、すべて寄託されたもので、作品のセレクトからアッセンブル、レイアウトまで、柳工業デザイン研究会が行なっています。展示資料室2は、企画展やイベントで使うスペースで、当研究所が主催する企画展を年1回、学生の教育成果を一般の方々に見せるための展示などを年に数回行なっています。それ以外の期間は、柳さんと金沢美大の関係性を知ってもらうための、映像プログラムやパネルを展示しています。
生活を想定した空間に柳の作品が常設展示されている展示資料室1。
先入観なしにデザインと向き合えるよう、説明書きは付けていない。
展示資料室1の奥にある柳の略年譜。
企画展が行われる展示資料室2。
― 常設展示されている柳さんの作品は、歴史的なアーカイブというよりは製品が中心ということですね。寄託された資料というのは、具体的にどのようなものなのでしょうか。
森 基本的には製品で、一部が試作品です。図面などはほんの少しでしたから、柳工業デザイン研究会のほうにまだあると思います。それとは別に金沢美大が所有している作品が数百点あります。
南 寄託されたデザイン関係資料に関しては、空調設備のある民間の倉庫で保管しています。金沢美大が所有している作品については、2階の保管庫で管理しています。保管庫に関しては、常時公開することはできないのですが、予約していただいた方にお見せしています。
2階の保管庫には、金沢美大が所有する作品が保管されている。
― こちらには、年間でどれくらいの方が来場されますか。
森 約2万人です。ここは観光名所の近江町市場と東山の途中にあるので、通りすがりの観光客が立ち寄られることが多いですね。一方、外国人観光客は、柳宗理の作品を見にわざわざいらっしゃる人が多いように思います。
学校教育へのアーカイブの活用方法
― 柳さんのアーカイブを活用した授業など、大学と連携した取り組みは行なっていますか。
森 次回、3月~5月に開催する企画展「1955・産業美術・発進―金沢美術工芸大学のデザイン教育―」では、デザイン科の新入生を対象にガイダンスを兼ねたコラボレーションをやりたいと思っています。1955年は、金沢美大が美術工芸専門学校から短期大学を経て四年制大学になった年で、新設された産業美術学科の講師として招いたのが、当時第一線で活躍していたデザイナー、柳宗理さんと大智浩さんでした。この美大としての始まりの年に、日本の美術教育がデザインにどう取り組んできたのかを紹介する展示を計画しています。
大学の附属機関なので、学校教育と連携することが大前提ですから、これからもこうした取り組みは続けていきたいと思っています。
― アーカイブを生きたかたちで活用できる場はとても大切ですよね。現在の金沢美大の学生にとって、柳さんはどういう存在なのでしょうか。
森 今の学生からすると、すでに身近な存在ではなくなっています。柳さんが嘱託教授だった時代は、年に数回、2~3日の集中講義をするというかたちでした。講義の録音はないのですが、残されたメモなどから推察すると、プラティカルなデザイン手法ではなく、デザイナーとしての心構えなどに関する話をたくさんされていたようです。それがインダストリアルデザインの道に進む人にとって、大きな刺激になったのだと思います。ただ、ある年代から学生と接する時間が少なくなってしまったので、そうした密度の差は大きいでしょうね。
南 こちらの研究所にも卒業生の方がお見えになるのですが、やはり柳先生から直接講義を受けた世代のお話は熱を帯びていて、その影響力の大きさを垣間見ます。それが、今の学生やある年代以降の卒業生になると、柳先生の捉え方やその密度に差があるようにも思われます。ですから、学校教育を通して世代間を埋める橋渡しができるといいなと思っています。そういう意味では、オーラル・ヒストリーなども重要ですよね。
森 卒業生からの聞き取りは、柳工業デザイン研究会のほうで世代順に進めていると聞いています。
地道な調査による年譜・目録の修正
― 柳さんの企画展を開催するには、さまざまな調査が必要になると思いますが、それが同時に研究活動に結びついているということでしょうか。
森 そうですね。先ほどお話した柳工業デザイン研究会との寄託契約は、寄託された資料を核にして、学術協力をしていこうという内容なんです。その一つとして取り組んでいるのが年譜の修正作業になります。たとえば、これまで柳さんの東京美術学校の卒業年が1939年とされていたのですが、実際は1940年だったことがわかりました。昔の専門学校は五年制でしたが、戦後、新制大学になって四年制に変わったため、ご本人が勘違いされていたのだと思います。
また、彼は戦時中フィリピンに行っていたのですが、帰国したのが終戦の翌年の1946年だという記録はあるものの、何月だったのかということまでは、ほとんどの本に書かれていませんでした。それがつい最近、展覧会の準備をしているときに、5月だということが判明したのです。
― フィリピンには、兵士として行かれていたんですか。
森 当時、彼は坂倉準三建築事務所の研究員で、現地で日本人が使う組立式の住宅などを板倉が設計していたことから、その施工の補助として行ったのだと思います。なぜ帰国した月が重要かというと、最初の白い陶器シリーズを発表した1947年までの間に、どれくらいの制作期間があったのかということに影響するからです。帰国が1946年の5月であれば、発表までに約1年の時間があったということになります。これはとても大きな収穫でした。ほかにも、彼が発表した文章を調べ直しながらデータを補充して、著作目録をつくっています。
こうした基本データの修正調査は、研究所の設立以来ずっと継続的に行なっていて、その情報を柳工業デザイン研究会と共有しています。
― それも貴重なアーカイブですよね。柳宗理さんは、もっとも研究が進んでいるデザイナーのひとりではないでしょうか。
森 柳工業デザイン研究会が継続して情報源となってことが大きいと思います。ただ、あちらは柳さんのデザイン監修や製品開発もやっているので、文献を一つひとつ紐解くような研究をするのは難しいはずです。ですから、そういうことは僕らの役割として引き受ければいいのかなと思っています。
国立のデザインミュージアムの必要性
― 柳さんをはじめとした巨匠たちのデザイン遺産を、どのようにアーカイブしていくべきだとお考えですか。
森 やはり国立のデザイン美術館ができないと無理だと思います。美術品よりもモノの数が多いので、それらを保管するには膨大な体積が必要になりますよね。それは、一地方自治体ができるような仕事ではないと思います。
― 昨日、金沢工業大学の建築アーカイヴス研究所にうかがったのですが、やはり資料が膨大で、スペースの確保や管理方法など、大変ご苦労されている様子でした。
森 国立近現代建築資料館も、まだ3~4年しか経っていませんが、もういっぱいですよね。やはり容積の問題は大きいと思います。もう一つはマンパワー。データ処理はデジタル上でやることが多いので場所は取らないのですが、その前にデータを読み込む作業が必要です。しかも、古い図面は紙が劣化していますから、状態が悪いものは何回も広げることはできません。すると1回目に広げたときに、読み込み作業やケアなど、あらゆることを同時に行なわなければならない。つまり、人材をたくさん投入できるか否かによって、できることとできないことが分かれるということです。
― 武蔵野美術大学がアーカイブ化推進事業を行なっていますが、今後、デザイナーの出身大学や専門学校が主体になってアーカイブをつくっていくことは可能でしょうか。
森 大学も敷地が限られていますから、収蔵庫にも限界があります。ですから、大学と関係のあるすべてのデザイナーの作品を集めるのは難しいのではないかと思います。
― 柳さんの製品は、時代を経ても廃れない生活用品ですが、一方でテクノロジーの進化によって常に更新されるインダストリアルデザインは、製品の数も一層膨大ですよね。
森 本来は、メーカーがきちんとアーカイブしておくべきだと思います。パナソニックやソニーなど、いくつかのメーカーはやっていますが、総体的に投資額が足りていません。トヨタも日本のメーカーとしては大きな博物館をもっていますが、売上ではトヨタにまったく及ばないフォードの方が、桁違いに大きいミュージアムをもっていますよね。
これまでも学芸員として、さまざまなプロダクトを集めた展覧会を手がけてきましたが、メーカーに依頼してもなかなかモノが集まらず、コレクターのマーケットで購入して補ったこともあります。メーカーに頼るのも難しいというのが現状ですから、包括的にデザインを見せるには、やはり国立の美術館が時間とお金をかけて、モノを集める必要があると思います。
― 貴重なご意見をいただき、ありがとうございました。柳さんのアーカイブに関しては、二つの研究機関が相互協力することで、今後ますます充実していきそうですね。また進捗がありましたら、ぜひお話をお聞かせください。
問い合わせ先
柳宗理記念デザイン研究所 http://www.kanazawa-bidai.ac.jp/yanagi/
Report
レポート
柳工業デザイン研究会
インタビュー:2016年7月20日(水)13:00〜14:30
取材場所:柳工業デザイン研究会
取材先:柳工業デザイン研究会
インタビュアー:関 康子、浦川愛亜
ライティング:浦川愛亜
財団法人としてデザイン活動を始めた
柳がデザイン活動を始めたのは、1946年の31歳のときだった。それから4年後の1950年に、柳インダストリアルデザイン研究所を開設。デザインの啓蒙と普及を考え、1953年に財団法人となり、柳工業デザイン研究会と名称を改めて設立。柳が亡くなった後、2013年に一般財団法人へ移行した。
現在、一般財団法人柳工業デザイン研究会では、柳が手がけたデザインの監修および新製品の開発と、デザインアーカイブの整理と調査を行っている。同研究会が考える、柳宗理のデザインアーカイブについて研究員らに話を伺った。
柳の理想としていたこと
自身のデザインアーカイブをどうするかという具体的なことについては、柳から話が出たことはなかったという。ただ、製品や資料はしまっておくのではなく、「いろいろな人に活用してもらいたい」「できる限り1カ所にまとめて保管しておきたい」ということを口にしていたそうだ。
また、柳は生前、「日本民藝館」の近くに「近代工芸館」をつくりたいという思いを抱いていたという。そこには、自身の手がけた製品だけでなく、国内外の現代の素晴らしい生活道具を収めたいと考えていた。
日本民藝館とは、柳(宗理)の父である宗悦が「新たな生活工芸の創造に役立つ、工芸の基準を示す場」として、1936年に東京の目黒区駒場に開設した美術館である。宗悦は、大正時代に陶芸家の河井寛次郎と浜田庄司と共に民藝運動を起こした人物として知られる。民藝運動とは、工業化が進んで大量生産品が生活に浸透してきた中で、日本各地の手仕事の文化を案じて警鐘を鳴らし、真の豊さとは何かということを追求した運動だ。
宗悦は、民衆によってつくられた生活道具の中に、美しさを見出し、生涯にわたって各地を巡り、それらを蒐集した。日本民藝館には、それらの品も含めて、縄文時代から昭和前期までの国内外の陶磁器や漆器、染織品や絵画といった造形物が約1万7千点収められている。
柳は若い頃、宗悦の蒐集したものを古くさいと感じ、前衛芸術に夢中になった後、学生時代にバウハウスやル・コルビュジエを知り、機械生産品のデザインに向かった。民藝とは一線と画していた柳の考えを改めたのは、ル・コルビュジエの協力者のシャルロット・ペリアンだった。1940年にペリアンが工芸指導員として日本に招聘された際に、柳は彼女の日本視察や展覧会のサポート役を担うことになった。その日本視察の中で、彼女が強い関心を寄せたのが日本民藝館のもので、そこで民藝の素晴らしさにも気づかされたのだった。
柳が日本民藝館の近くに近代工芸館をつくりたいと考えたのは、民藝と機械製品の良い物を並べて、そのつながりを明示し、それらから受け取ったものを未来に引き継ぐことが必要だと考えていたからだ。残念ながら、その近代工芸館は実現することなく、今に至っている。
金沢美術工芸大学と学術協力を結ぶ
柳工業デザイン研究会では、柳が70歳半ばを迎えた90年頃から、これまで手がけたデザイン製品などを次代に遺していこうと考えた研究員らが自主的に写真資料や模型、試作品などの整理を少しずつ行い始めた。デザインアーカイブの整理および調査が本格的に開始されたのは、柳が亡くなった後の2012年からだ。
1955年から50年余りの間、柳が教鞭をとっていた縁から、2012年には石川県金沢市にある金沢美術工芸大学と学術協力を結び、製品をはじめとするデザイン関係資料約7000点を寄託。2014年には大学付置施設として、「金沢美術工芸大学柳宗理記念デザイン研究所」が開設された。
施設内には、エレファントスツールや紋次郎ティーテーブル、出西窯の食器といった約200点余りの製品が展示され、生活を想定して空間の中で実際にものに触れて、柳のデザインを感じられる場になっている。各製品のキャプションや説明文を置いていないのは、来場者に余計な知識や先入観を持たずに「無心にものと向き合って、自らの眼で素直に美を感じ取ること」を大切にしてもらいたいからだという。
同研究所では、柳が生きた時代のデザインの調査研究のほか、その成果を発表する企画展示や公開講座、柳の関連書籍や情報の提供も行っている。寄託した約7000点のデザイン関係資料は、この研究所内ではなく、金沢市内の倉庫に保管されている。
倉庫内には、家具や食器、カトラリーなどの製品、雑誌『民藝』の表紙や展覧会のポスターといったグラフィックデザイン、工業製品、ベンチなどの公共用家具、模型、試作品、製品図面などが所蔵されている。現在、その倉庫内の所蔵品と柳工業デザイン研究会内で保管されている掲載誌、原稿、手描きのメモ、手紙、新聞の連載記事と合わせて、研究員によって調査と研究が行われているところだ。
当時の雰囲気を残した空間
柳工業デザイン研究会には、現在も数名の研究員が在職している。その空間に置かれた家具は、柳がデザインしたものに加え、柳がセレクトしたほかのデザイナーのイスなどもある。模型をつくるのに使用していた電動のろくろをはじめ、作業机や椅子。簡素な流し台やガス台もある。キッチン用品を開発することも多かったので、昼食時に試作品の鍋などを使って交代で料理し、みなで食事をしながら意見や考えを交換し合って検討を重ねたそうだ。
木製棚には、柳が国内外で収集した蔵書や民藝品や骨董品などが飾られている。ディスプレイすることもデザインのひとつと考え、新しい品が増える度に配置の仕方に毎回、工夫を凝らした。その棚や制作現場の様子は、雑誌や書籍でも度々、紹介されてきた。現在、研究員らは意識的に柳がディスプレイした棚や、当時のデザイン活動を行っていた雰囲気をできる限り、そのままに残すように努めているという。
この研究会内にも、製品図面や写真の一部が保管されている。写真は、紙焼きとフィルムの両方が残されていて、カビが生えたり、変色してしまったりしたものもあるが、現在はドライキャビネットの中に入れて管理。製品写真は、柳の監修のもと事務所専属の写真家に撮影してもらっていた。柳もカメラが好きで、特に旅路で撮影した写真が多数残されている。
研究会内で目下、議論しているのは、この良いものを身近に置くことで、新しいデザインの発想が生まれることを体現した空間自体をそのまま保存していくべきなのか、あるいは、地震等のリスクもある中でデザインリソースとも呼べる、柳が収集したものもアーカイブとして倉庫で保管するべきかどうかということだ。
問題点や課題になっていること
現在、柳のデザインアーカイブの整理および調査を行う上で、問題や課題となっていることは何か。ひとつは、これまでアーカイブを残すことが念頭におかれていなかったため、資料内容についての情報が乏しく、事実関係を調べるのに手間や時間がかかることだ。
たとえば、撮影者の明記がなく、著作権の保有者がわからない写真も多いということ。また、柳の製品は、50年以上のロングセラーのものもある。途中で材料が変更になったり、製作を請け負うメーカーが変わったり、製造上の問題で多少の形の変更を余儀なくされたものもある。だが、その変更されたことを裏付ける資料がほぼないため、現在残されている保管品が最終的な製品なのか、試作途中の検討段階のものなのか判別が難しいそうだ。
また、調査の中では、柳と一緒にものづくりを行ってきた元職員や当時、メーカーに在籍した元社員へのオーラルヒストリーを行うこともあり、その際にはアーキビストとしての知識のほかに、デザインの専門的な知識も必要になる。従って、こうしたアーカイブの調査研究保管を行う際には、さまざまな知識や能力を持った人物が複数名でチームを組んで当たることが理想ではないかという。
デザインミュージアムについての意見
柳のアーカイブの調査研究を行うなかで、デザインミュージアムに対する意見もさまざま聞くそうだ。
「デザインアーカイブを単に展示するだけでは、面白くないのではないか」「物がつくられた背景や思想も含めて、デザインプロセスが伝わるような展示を行うミュージアムをつくるべきではないか」「デザイナーのデザイン活動を正しく展示で伝えるためにはどうしたらいいか。そのことをまず議論していくことが大事ではないか」など。
また、デザインプロセスを含むすべてのアーカイブを公開することは、「はたしてデザイナーにとって、いいことなのか」「デザイナーに対する冒涜ではないか」という意見も。デザイナー自身が最終製品として認めていないものや、実はデザイナーにとっては捨てるに値するようなものが含まれるかもしれないという理由からだ。
さらに、一般論として「今をアーカイブすることのほうが大事ではないか」「とにかく今あるアーカイブをデジタルデータとして保管し、著作権が切れた頃に、改めてそれを取捨選択すればいいのではないか」という考えもアーカイブにはある。
活動を未来につなげていく
デザインというのは、社会活動とは切っても切れない、強い結びつきをもったものである。柳もデザインを広く普及していくことを考えて財団法人として活動し、デザインアーカイブについても生前に「いろいろな人に活用してもらいたい」と話していた。
研究会でも、柳のアーカイブをこのまま保管するだけでなく、できるだけ多くの人に活用してもらい、社会に役立て、その先の未来につなげていくことが大事だと考えている。柳のアーカイブを展示するミュージアムをつくることは目標としているところだ。
そして、研究会では、現在行っているアーカイブの調査と研究活動の内容や柳のデザイン手法と思想をこれから若い世代や学生に伝授し、次代に受け継いでいきたいという思いも持っている。それについては現在、検討している段階とのことだ。
問い合わせ先
柳工業デザイン研究会 http://yanagi-design.or.jp